【コラム】社会人として役立った・幼少期・青年期の体験 第5回
広瀬光哉(カクタル代表取締役社長・営業強化コンサルタント)
2023年11月22日

荒れた中学、校内暴力に嫌悪の日々

前回は小学校高学年の頃の体験を書きました。今回は、中学生になって途中転校した体験を書きたいと思います。

小学校低学年では東京の白金に、小学校高学年からは親の転勤で兵庫県西宮市の夙川に住んでいました。どちらも住み心地の良い土地でしたが、父の転勤で中学の途中で東京に戻りました。勤務場所の都合で千葉市に住居を移し、中学2年の途中で、最寄りの公立中学に編入しました。「人生はプラスマイナスゼロ」と言われますが、千葉での中学時代は、私にとっては試練の時でした。学校の雰囲気になじめず、 早くここから抜け出して、高校に行きたいと思い続ける日々でした。

転校して初めて登校した日の光景は、今でも鮮明に覚えています。中学2年の9月1日でした。体育の授業での着替え場所で、生徒がいきなり先生を殴ったのです。びっくりして、体全体が固まった感覚を今でも思い出します。

この中学は大変荒れていて、生徒数も多く、後から聞いた話では、生徒が先生を殴るということが頻繁にある学校でした。しばらく通っていると、校内での喧嘩はよくあること、校外でも別の中学の生徒との喧嘩があり、自転車のチェーンを振り回して、やったりやられたりを繰り返していることがわかりました。

制服は学生服でしたが、男子学生は襟を高くしたりズボンを太くしたり、女子学生はスカートを長くしたりしていました。もう、全ての景色が、これまでに過ごしてきた中学校とは違っていて、カルチャーショックの連続、自分には合わず最悪の日々でした。

この学校に来る前は、喧嘩や腕力の強さで上下関係ができるという感覚がなかったので、同じ学年なのに暴力が好きな子たちが偉そうにする空気を耐え難く感じました。この時の嫌悪感は、「暴力や腕力で人を支配する関係を嫌い、パワハラをする上司を許さない」という自分の生き方につながっていると思います。

唯一、バスケット部が救いだった

この時期に唯一の救いだったのが、バスケット部での活動でした。前の中学で1年生の時からやっていたので、転校しても迷わずにバスケット部に入りました。顧問の先生がレギュラー選手として大事に使ってくれたので、「認められている」という喜びがありました。部活が毎日あり、日曜にも試合があったので、部活に没頭することで、嫌いなクラスメートと距離を置くことができました。

部員同士の関係も良好でした。上級生だから威張るということもなく、仲間意識が強かったので、私が行った高校をめざして来てくれた後輩も何人かいます。

生まれて初めて、父親との二人暮らし

子どもにとって、転校は心の負担になります。私にはもう一つ、負担に思うことがありました。父の転勤が急に決まったこと、姉が神戸の私立高校に通っていたことがあり、一家全員の転居ができず、 最初は父と私だけの転居となりました。生まれて初めて、父と2人きりの社宅生活が始まったのです。

父も慣れない勤務地での仕事で疲れていたと思いますが、私のために色々と工夫して夕食を作ってくれました。それを見て、私も学校についての愚痴を言わないようにしていました。父が疲れて、夕食を作りたくないという日には二人で外食することもあり、それはそれで楽しかったです。中学3年の春からは母も一緒に暮らすようになったので、家族の生活も日常に戻った気がしました。

辛い時期を耐え、解決策を考えて実行

自分の人生の中で、この中学時代の1年半は辛い時期でした。自分とは価値観の違いすぎる子たちとクラスで同じ空気を吸うのが苦痛でした。ともかく、周りに流されず、暴力のない高校に行くことを目標に一生懸命勉強し、バスケット部の部活に没頭しました。

中学時代に、世の中には暴力が好きな人間がいることを知り、そうした子たちと当たらず触らず、距離を置く術を覚えたことは、今考えればいい経験だったと思います。中学生なりに、楽しくなくても我慢し、目標を立てて、置かれている世界から脱出するための計画を実行したことも、社会人になって役に立っています。

このように暗い1年半の中学生活を乗り越えて、晴れて希望の高校に合格しました。次回は、明るい高校時代の話を書きたいと思います。

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