【コラム】社会人として役立った・幼少期・青年期の体験 第1回
広瀬 光哉(カクタル代表取締役社長・営業強化コンサルタント)
2023年3月15日

大学を卒業して企業に入社し、従業員8,500名を超える上場一部企業の取締役・部門長で42年間の社会人人生を終えたので、「自分は企業人としては成功した一人だろう」と勝手に思っています。
そこで、自分が社会人になるまでを振り返って、自分なりにやってきたどんなことが、後の社会人生活に役立ったのか整理してみようと思います。

自分自身のプライベートな話になるので、恥ずかしい気持ちもありますが、私の話が社会人のみなさんの参考になるかもしれないと思い、子供時代から大学時代までを振り返りながら、数回のコラムにまとめてみようと思います。

戦後10年目、復興のエネルギーの中で誕生

まずは生まれた年と時代背景の話です。

私は1955年10月生まれです。両親と3歳上の姉の4人家族でした。父は上場企業勤めのサラリーマンで、私たちは東京都港区白金台に住んでいました。
私が生まれた1955年は、戦争が終わって10年しか経っていない時ですが、私の記憶には「戦争の傷跡の風景」は全くありません。 白金台の高台から見ると、東京タワーが建ち始めていて、都電も地下鉄もバスも走っていて、周りは都会だったという印象です。

ただ、渋谷の駅前に行くと白い病衣を着た兵隊さんが座っていて、アコーディオンやハーモニカを吹いて募金活動をしていました。戦争で手や足を失ったその姿がすごく怖くて、凝視できなかった記憶があります。子供心に「戦争」を感じたのはこの時くらいでしょうか。

親からは焼け野原だった東京の話をよく聞かされていたので、「たった10年で東京を大変身させた日本の力はすごかったんだな」と今更ながら驚きます。そして、「すごい国民なんだな」と感心します。

優しい父と厳しい母のバランスの中で育つ

父の思い出は「優しさ」しかありません。 怒られた記憶もなく、いつもニコニコと見守ってくれている人でした。
日曜日しか休みの無い時代でしたが、その貴重な日曜日の朝7時から、品川のスケートリングに連れて行ってくれました。私なら絶対に、「日曜ぐらいゆっくり寝かせてほしい」と言っていると思います。また、当時の私は、足によくしもやけができていました。そうすると、父はバケツにお湯とミカンの皮を入れ、その中で足をもんで治してくれました。私とは全く性格の違う父でした。

母のことで思い出すのは、叱咤激励される場面ばかりです。厳しい人で、泣いて何かを訴えて理解してもらうなんて考えられませんでした。ケンカして泣いて帰ったら怒られるし、体調不良を訴えても絶対に甘やかしてもらえませんでした。

でも、この両親のバランスの中で、「優しさ」と「強さ」の両方の良い面を自然に感じたのだと思います。こうした親の愛、家族の愛は、自分が大人になる上での大事な土台となっています。

競争に勝つのが好きな子供だった

幼稚園時代は小さすぎて、社会人生活に役立ったことにはつながらないと思いますが、どんな子供だったか、少し書いておきます。

私が住んでいた港区白金台は当時から高級住宅街で、周りには大邸宅が立ち並んでいました。私は社宅にいたのでお金持ちではなかったですが、近くに幼稚園がなかったので、サンタサセリア幼稚園というミッション系の場違いな幼稚園に行きました。アメリカ人の子供も来ていて、その子たちの持ってくるお弁当は藤製のバスケットに入っていました。

(写真:ジャイアンツの帽子を被った幼稚園児の私)

中身はタコの形にカットしたウインナーソーセージや骨付きの鶏のから揚げ、上品なサンドイッチなどで、「見た目もきれいで、美味しそうなお弁当だなあ」と、毎日見とれていた記憶があります。私のお弁当は、白いご飯の上に甘い卵焼きが乗っているだけでした。この頃から、私には西洋文明に対する憧れが根付いたようです。

両親が撮ってくれた幼稚園の写真を見ると、運動会の駆けっこで1位になっています。学芸会で主役の天使様を演じている写真もあります。当時、「親を喜ばせるために選ばれたい」という意識はなかったと思うので、純粋に競争に勝ちたい、主役に選ばれたいという意識が強かったのだと思います。もうこの時期から、私の「負けず嫌い」の性格が出ていたのでしょう。

この「人に負けたくない」「競争に勝つのが楽しい」という気持ちは、社会人になった後の様々な努力の土台になっていると思います。

第一回目はこの辺にしておきます。 次回は小学校時代の思い出に入っていきたいと思います。

ジョギングの途中で満開の梅を見ました。桜の満開まで秒読みです